[A-026] ヒカシュー - ヒカシュー ('79)
日本の歌謡界では昔から『御三家』『三人娘』『花の中三トリオ』『新御三家』等と云ったグルーピングによるレッテル貼りが慣例化していたが、70年代末~80年代初頭には何と『テクノポップ御三家』と云うモノまで有った。何とも陳腐なネーミングであるが(笑)、その犠牲になってしまったバンドが、プラスティックス、P-モデル、そしてこのヒカシューである。
YMOのヒットが『テクノポップ』と云う概念を日本に於いてポピュラーにしてから、シンセサイザーとリズムマシンを楽曲に取り入れたバンドが続けとばかりにわらわらと涌き出した。それこそ、フツーのギター・バンドも何らかのテクノポップ的なアレンジの曲をアルバムに入れる程であったのだが、その中でも、早くからエレクトロニクスを取り入れ、未来的なコンセプトでパンク/ニュー・ウェーブの流れから出て来たヒカシューを初めとする三バンドが、その『売り』として『テクノポップ』のラベルをぺたりと貼られたのだろう。
しかし『未来的』とは云うけれど、その未来は曇天なのだ。世界にも類を見ない高度成長を遂げ、富める国となった日本の、これは軽い憂鬱の様な感覚だ。80年代とはつまり、『がむしゃら』を肯定し、『頑張る』事を続けて来た人々の笑顔にふとよぎった『疑問』と『自己否定』の始まりの年代だった。人間や文明に対する不信は、『ロック・ミュージック』の連綿と続くひとつのテーマではあるけれども、文明の利器たるエレクトロニクスと対峙して尚その舌鋒鋭く突くのは、つまり自己批判とも取れるし、ロックそれ自体の批評性であるのかも知れない。
ヒカシューのこの1stは、巻上公一 (Vo,B)の自意識の奔流で昏倒しそうな圧力のあるボーカルと、フリーキーなサックスを取り入れたバンドサウンドに絡み付く奇形のエレクトロニクスで、ギャグともホラーともつかない何ともシュールな世界を構築しているアルバムだ。特に『二十世紀の終わりに』『プヨプヨ』『幼虫の危機』は彼らの全キャリアを通しても代表作に数えられる楽曲だろう。
彼らはもしかしたら誰もが感じ始めていた『時代の不安』を、それらの曲で拡大して歌ってみせた。エレクトロニクスの持つ無機を指差し、ひそひそと陰口を叩き、または大声で笑ってみせた。エロスをぶつけて中和を計り、ノイズで覆って飽和を計った。そしてそのどれもが『フリージャズ』でも無く、『パンク・ロック』でもなく、歪んでも凹んでもどうしようもなく『ポップ』だったのは、そんなどこか狂的な時間に於いてさえ、結局バランスを保ってしまうと云う、…今思えば『冷戦』なんてそんなモノだったのかも知れない。
その他のアルバム
プラスティックス - オリガト・プラスティコ ('80)
1stはニューウェーブ/テクノポップのテンプレとも云えそうな騒がしくも明るく乾いた作品だったが、この2ndはポスト・パンクの響きを持った、湿り気も陰りも有る傑作。
P-モデル - P-Model ('92)
「あーそうですよ、オレたちゃテクノポップバンドですよ」とばかりに突然開き直って、テクノポップが既に死に絶えた92年にわざわざ作ったテクノポップ・アルバム。(リンクは次作とのカップリング)
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